今年より新たな門出を誓う、という正月になるはずでした。
今年の1月1日、午後4時10分
大地震に見舞われました。
石川県能登地方 マグニチュード7.6
震度7
富山県富山市 震度5強
のちに、名称が定められた「令和6年能登半島地震」です。
このコラムを書くの立場ですが、被災地の現状や、被災された方々の生活が、まだ復旧されていない今、書くべきかどうか悩みましたが、少しでも有益な情報を発信したくなったのと、私自身、富山市の海岸近くに住み、発生してから直ぐに避難して一晩、避難所で待機した体験者としての、実際の体験談が参考になればと思い、書くことにしました。
このコラムは、どんなことを書くのが有益で、皆様のためになるのか考えながら書きますので、内容が不十分であったら、また別の機会に書きたいと思いますので、どうかご容赦ください。
そして、何を書いたらいいか?
このコラムは「住まい」のリフォームのことを書いてお伝えするところです。
なので、タイトルとしては我が社でも表現しています「地震」に強い家づくりが一番適していると思いますので、それを中心に体験談も交えて書いていこうと思います。
お伝えする内容を2部構成にします。
1部は、実際の「リアル」な体験談を、まとめてお話します。
それから2部として、私が大事なことと感じた地震対策をまとめたいと思います。
膨大な内容になる予想が立ちますので、なるべく端的に書くことを意識しますが、今回は
1部の内容で、一度止めたいと思います。
ご容赦ください。
ご存じの方も、同意する方も大勢いらっしゃると思います。
富山市に住んでいて、生まれてからこれまで「富山」の生活に慣れ親しんだものとしては、どんなに他の地方、地域で起こっている「地震」のニュースだとしても、体験したのはわずかに「震度3」の体験しかなく、実際に感じるニュースは「大きな地震とはどんなものなのか?」というのが実態です。
なので、地震の体験の初心者です。
ここで「住まい」のリフォームに携わってきて、「地震に強い家づくり」を表していることは、体験しないと表現できないと思います。
実際に、大きな地震を体験したことのない人たちと「地震シミュレーション」のデモンストレーション効果を体験で、「震度7」クラスの揺れを感じたことはあります。私は、それでも感覚を忘れないようにと、この体験ができる自社のイベントで何度か味わいました。
確かに「相当な揺れ」をそのときは感じます。1~2分くらいで体験は終わります。
だからと言って、揺れの感覚は味わったとしても、恐怖の体験までは味わえません。
それなので、リアルな恐怖体験は今回の地震が初めてでした。
ここからは、体験談を話したいと思います。
リアルな体験談が、皆様にも伝わると思いますので、長文になってしまいます。
なので、読みづらいと思われることがありますので、ところどころ、省略しながら読んでいただければと思います。
私は、自宅のダイニングキッチンにいました。
お茶を飲みながら、正月番組を見て寛いでいました。
家族は、母がひとり、キッチンにいて、次の夜にむけて洗い物の最中でした。
突然でした。
揺れました。
それもよくは覚えていませんが、第一声は、確か母だったと思います。
「地震だ!」
「揺れているよ」
その言葉は覚えていました。
瞬間的に、大きな揺れが起きました。
そのときには、母が近づいて来ていたので、私は、母の手を取り、横の椅子に引っ張りました。
そこからは、今になってですが、映像のように見ていた感じでしたが、「地震シミュレーション」のときのように大きく振りかぶって横に縦に、動きました。
「キャー」
と、甲高い叫び声。
高齢の母は横で、叫びながら必死に食卓テーブルにしがみついていました。
私は、とっさに
「手を離すなよ!」と叫びました。
結構、長く感じました。目の前の食器棚が揺れました。幸い、倒れる寸前でした。
その分、中身の食器は、扉の中で崩れ、何枚か割れる音がしました。
横にあった小型のテレビはズレながらも、倒れることはなかったのですが、そのテレビ台の前の、移動できるキャスター付きの収納ケースは、バタンと倒れ、その中身のクリアファイルフォルダーは、収納ケースから飛び散りました。
前日まで、大掃除をしていて、やっといらないものを片付けていたので、飛び散るものが最小限に抑えることが、せめてもの救いでした。
目の前とキッチンの中の揺れがおさまったときに、冷静に考えて、まずは大地震だと思い、次に、横の母に
「大丈夫か?」
と声がけして
「ええ。」とだけ、返事してくれました。
そのあとで
「急いで、出るぞ」
と話しかけました。
矢継ぎ早に「ああしろ!」「こうしろ!」と指示をしました。
が、母が高齢なのと
「トイレに行きたい」
と言ったので、初動スピードがかなり遅くなり、私は、
「早く動かんと、やられるぞ!!」
と、怒気を含めて、発声しました。
トイレにも普段のかかる時間が想定できたので、なおさら、怒りました。
私は「やられるぞ」の連続で、その時間は、私も出ていけるための準備ができていませんでした。
ただ「やられるぞ」の意味だけはわかっているつもりでした。
それは、イメージとして、東日本大震災のときの津波が襲うときの生々しさと、大地震のとき、家屋がつぶれた時に、中に押しつぶれる映像がありました。
それは、この仕事をしてきてその「悪い映像」が、インプットされていたのだと思います。
というのも、冷静にとっさに感じて判断しているとあとで思いましたが、
私の住む家が、
①築年数52年で(私の誕生日が12月で、新築したのがそのあとの3月に完成している)木造住宅なので、耐震リフォームしないとつぶれてもおかしくない。
②ハザードマップの記憶があって、洪水になると神通川の河口と津波になると海岸から車で5分のところは、水害としては「危ない場所」という知識が残っている。
という2つの条件が重なっていました。
なので、急ぎ逃げないとまずいことになる、と感じていました。
※写真はイメージです。
まず、母を車に載せてどちらに向かおうかと思ったときに、ハザードマップの記憶がいかされて「水の影響がないところ」として、私の家より「東に7分」と判断しました。
道が混雑していて、最初の国道の交差点で渋滞していました。
幸い富山県の大動脈が国道8号線で、東西に通る道ですが、私のいる場所よりも通常で5分、南へ向かったところですが、私のいる場所は国道415号線で、同じく東西に通る道です。
他の車が海よりも遠いところを目指すために、「南」行きの道路が混雑して渋滞をしているのとは別に「東」行きの道路に乗った時点から道路が比較的に、すいていました。
正直「ついてるなあ」と言葉にもしていて、不謹慎かと思いましたが、最初に出発するときに大分もたついていたのでそんな心に思ったことが、つい出てしまいました。
ようやく冷静に考えるようになれたのは、おおよその方角と目的地に近づいてきた時でした。出発して約20分くらいです。
さて、どうしようか?
率直に思いました。母も何をしていいかわからず、家から出て30分くらいたったころです。冷静に考えると、それでもこの時点で、対処の時間が遅いと感じました。自宅のご近所の方々も早々に車を出して避難しておられたし、その姿には、避難用のリュックサックと防寒具のフルセットが見られて、準備されているのが見ただけでわかりました。
それでも、必要最低限の準備をして、自宅を無事に出られたのは、不幸中の幸いかと思いました。
まず、夕方5時をまわり、今晩とどまる場所を考えました。駐車スペースを確保して、なおかつ車中泊を考えて、安全な場所はどこかにあるか?と考えて思いついたのが、私がリハビリテーションを利用しているリハビリテーション病院でした。
※写真はイメージです。
私は利用者だから、駐車場に無料で入れると思い、確かめにいきました。車で2~3分くらいのところです。
ラッキーに思えたのは、駐車場ががらがらで、スムーズに入れそうでした。一旦、食料を買い出しに近くの、それも駐車場のちいさな、わかる人ならわかるようなお店に行きました。
他にもコンビニで、近くの幹線道路に駐車場が大きくとってあるところもありますが、おそらく満車だろうと避けて行きませんでした。
その予感はあたり、スムーズに駐車できました。
なかに入りましたが、まだまだ食料はありましたが、続々と購入する方々が入場してきました。
※写真はイメージです。
コンビニでの購入は、「とりあえず食料でも、夕ご飯になるものを、あるものの中から買おう」
と、お茶と一緒に母の分と2人分レジに並ぼうとしました。
そんな時に、母が
「トイレに行きたい」
といい、こんな急いで買いたいときにと、自分本位の考えになりましたが、一旦、買い物かごをレジに預け、トイレに行きました。
高齢の方をご家族に持たれている人には、わかっていただけると思いますが、トイレ1回の時間が長く、だんだん待っている方が並び始めたので、通路の外から催促しました。
ようやく出て来た母をコンビニの入口付近で待ってもらい、再度レジに並びました。その時点で、最初に並び始めたときよりも長い列が生まれていて、仕方ないのでそこで並びました。
レジに並んでいると、他の人たちの買い物かごに目がうつり、皆さん大量にかごに入れておられました。
「そんなに買い込まなくてもいいのに・・・」
それが率直に思ったことですが、そのすぐ後にコンビニのレジ打ちの方、たぶんその店の店長の方だと思いますが、一言
「この後、店を閉めなければなりません。富山市の要請で、市内のコンビニは、食料が集まるところになり、人が集まることが予想されるので、危険な状態になるとまずいから、全部のコンビニに要請を出されています。だから、店は7時(19時)には閉めます!」
とおっしゃられました。
考えを切り替えました。
わずかなお金を使い、限られたなかで、買えるものは買おうと思いました。
その時点で、最初に並んでいた、パンの棚やお惣菜、弁当の棚は空っぽになっていて、仕方なくお茶のリーズナブルな自社製品のものを5~6本、同じく自社製品の100円ほどで買える米菓やポテトチップスなど数点買い、レジでギリギリのお金を払いました。
私には
「少しの間だけでも時間かせぎできれば」
という考えと、まさにこの夜の心配として、車のガソリンが半分以下の状態だったので、残りのお金でガソリンを入れるつもりでいました。
※写真はイメージです。
ガソリンスタンドでガソリンを入れるのは、そこまで混むこともなく、スムーズに終えました。
そのあと、決めていたリハビリテーション病院の空いていた駐車場に入り、一度ひと息をつきました。
そのあとで、これまでに起こってきた出来事をもとに、今晩、起こり得ることを予想しました。
簡単に出たのが、トイレの問題です。
ここのリハビリテーション病院は、現在も利用していて、淡い期待の想いをもっていました。
入口付近で、警備員の方と、看護師の数名の方々と出くわして、思い切って事情を説明しました。
「一晩だけ駐車場の利用と、トイレを中で使わせてもらえないでしょうか?」
そうすると、1人の看護師さんに
「それは駄目になっています。患者さんの安全を第一に考えると、この後、ここの玄関は締め切らないといけないです。」
その通りです。
理解して立ち去ろうとしたときに、もう一言、
「もしトイレの問題も含めて、行くとしたら、ご自分の地元の小学校に行けば、避難所として開放しているはずなので、そちらに行かれてみてはどうでしょうか。」
行き先が決まりました。
※写真はイメージです。
小学校に着きました。
消防団の方々にお会いして、小学校の中に案内してもらいました。
母と2人で、職員専用の玄関を通り、玄関に一番近い教室に通されました。
暖房がきいていて、正直ホッとしました。
最初に通された教室で子供用の机といすを指さされ、そこで休んでください、と言われました。
その後に、車に戻り、食料を運び出し教室に戻りました。
ここで、買ったものを見てから、急にお腹が空いてきました。
先に入場しておられたご婦人に手伝ってもらい、母の食事を進めました。
私も買ってきた食べ物を1つ、食べて空腹をしのぎました。
すこし落ち着いてきて「やっと安全な場所が得られた」と思いました。
※写真はイメージです。
いつもだと休眠につく時間だと思いましたが、母の様子を見ながら、トイレに行くときには、場所を聞いておいて、確認しておこうと近くに座っておられる女性に尋ねました。
そのときに、
「お母さんに座ってもらっている椅子を、今ある車椅子に変えようか?」
とおっしゃっていただいたので、遠慮せずお願いしました。
多少は座高が高くなり、硬い椅子よりは、柔らかいシートでできた車椅子でしたので、母もゆったりしておりました。
私も小さい椅子にすわっていたら、腰がいたくなってきたので、他の人に迷惑にならないようにして、机の上に段ボールを引いて椅子替わりにしました。
母の周辺には、冷気が来ないように、車で使う日射除けの大きなシートが配置され、配られた毛布とあわせて、何とか今晩の寒さ対策ができあがりました。
同じく毛布が与えられた私は、段ボールの上に毛布をひいて、その上で暖房器具の暖気を近くで受けるような形で陣取っていました。
※写真はイメージです。
落ち着いてきたので携帯電話で新しい情報を見てみました。
加えて、仲間のグループラインからメッセージが入っており、それを見て私の状況をお伝えしました。
内容は短めに送りましたが、心配なこととして石川県、能登地方の出身の方のメッセージがなかったので、その安否の確認をおくるメッセージを送りました。
そこからは、私も一休みしようと机の上で、窓際の大理石調のカウンターに顔をうつぶせて仮眠しました。
明かりは全員がいるという時点で、つきっぱなしになっており、うつ伏せで寝ないと明るくて眠れない状態でした。
他の方も、顔周りを毛布でくるんで、場合によっては、床に段ボールをひいて寝ておられました。人数は10人くらいで1つの教室を使っていました。
私は、仮眠を45分くらいとってから、母の耳元で
「トイレに行きたいときは、後ろにいるからいつでも声かけてね」
と、言いました。母も
「今は、大丈夫だよ」
と、言いましたので再び、携帯電話をさわり、情報を見て時間を過ごしました。
ときどき、トイレに行きたいと母に言われたので、車椅子で移動して一番近くのトイレに行きました。
夜中の小学校は冷え冷えとして、寒気がしましたが、母は毛布を丸めて車椅子の上に座っていたので、そのまま移動してもらいました。
トイレが終わるまでは入口の外に待機し、終われば即効で教室に向かいました。
そんなトイレタイムが2度ほどありました。
私は、仮眠を時間ごとに分けてなるべく何かが起きても大丈夫にしたいと思い、熟睡を避けるように一晩過ごしました。
そんな時間を過ごして、特に何も起こらず時間は経過しました。
明け方になり、まだ暗かったですが、起きて携帯電話の確認をしました。
昨晩のライングループの内容に、夜遅くに返事をしていた仲間の無事な様子と、石川県に断水があるということが判明しました。
すぐにラインで喜びの内容と私の実況中継を送りました。
そこには、
「今から家に様子を見に行き、大丈夫そうだったら、ここに戻ってきて母も自宅に帰るようにします。」
と送りました。
車に乗り込み、薄暗い中、自宅に向かって走り始めました。
自宅に着いたときは、昨日の家を離れる時の様子のまま存在していました。
情報は確認していて、自宅近辺の被害らしきことはないと踏んでいましたが、そのときに気づきましたが、自宅のブロック塀の長さの約1/3が崩れ落ちていて、幸い倒れたのが道路側ではなく敷地内に崩れていたので、よかったです。
家の中には、最初に揺れた時の状況がそのまま残っていて、こちらも幸いひどく片付ける状態ではなく、ある程度歩けるくらいに片付けて、一旦家を後にしました。
母を起こし、自分の家の状況を見てきたことを伝えて、家に帰ろうと話しました。
係の人にも伝えて、小学校を出る準備をし、車に乗り込み、小学校の正門を出るときは、夜明け前の明るんでいる状況のなか出発しました。
ようやく我が家に戻れる。
そのとき心の中で思ったことは、
「耐震補強をしておけば・・
こんな大変なことには、ならかったはず!」
2023年12月20日撮影
2024年1月2日撮影
まずは、自宅の住む場所をかえる方向性で、具体的な期限と予算を把握して、
「安全に暮らせる家」にリフォームしていこう!
と思った、2024年1月2日のリアルな決意表明となりました。
第2章は、次のコラムでお伝えしようと思います。